昭和46年02月08日 朝の御理解
御理解 第69節
「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心ではまだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けて行けば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」
信心は容易いものじゃ。どう言う所から信心が難しいと言う事になるのであろうか。信心は難しい事ではないけど、信心は中々に難しかという。信心の無い人は、皆んな私たちにすこしは金が出来たら、暇が出来たら、信心せにゃんというた様に、如何にも金がなからなければ、暇がなからなければ信心が出来ん様な風に、決して信心とはそういうものじゃないですけれど、私はまあこういう風に思うんです。信心を頂こうと言う事になったら信心は本当に容易いものと思うですね。
容易うして楽しゅうして、有り難うしてと言う事になる。それをそのおかげを頂こうと思うから難しいのです。一生懸命おかげを頂こうと思うて信心する。中々思う様にじぶんの思う様に頂けなければ、だから難しいですね。おかげを頂こうと思うから難しいのです。だからおかげを頂こうと思うなら、だから難しい信心にせにゃならんことになりますけどね、けれども教祖がここでおっしゃる信心は容易いものじゃがとおっしゃるのは、信心を頂こうとする事は容易い事だと、難しい事じゃない。
問題はねおかげを受けなければならないとこういうけどね、成程おかげを頂くと言う事は有り難い。けれどもね、それよりも信心を頂く事の方が有り難いと云う事になって参りませんとね。おかげがね、おかげの範囲が狭くなってしまう。もうこれ一つ頂きゃもう信心はいらん事思いよる。お金に不自由する人はお金さえ頂きゃ信心はいらんごとある。不健康な人は健康さえ頂けば何もいらん様に有る。それでお金さえ頂ければ、健康さえ頂ければとまぁいうて、そういう例えば信心をするから難しいんである。
今日は此処んところをね、その日その日が立ち行けばと仰る。日は年月の始めじゃにじゃによって、其の日其の日のおかげを受けていけば立ち行こうがと。この辺の所をようと頂かせて貰ねばならん。昨日の朝の寒中寒修行を終わらせて頂いた、お礼を兼ね仕えての御礼をさせてもらい、皆さんの体験発表やら、まぁ恒例の茶粥の会などが開かれました。さあそれなら寒修行が終わったからというて、お広前が淋しくなるかちゅうと、もう寒修行が終わったから、もうお参りが少うなったちゅう事がないでしょうが。
昨日もやっぱり寒修行が終わったからでもお参りが続いておったし。大体その御祈念もやっぱしこのように沢山お参りがあっておる。してみると皆さんの場合は信心がね段々容易うなってきていられると思う。容易いものになってきておられると思う。そう言う事になる。そこで皆さんの場合には段々信心が身に付いて行く事の楽しみというか、喜びが強うなってきたというのではないでしょうか。
それをもっともっと純度が高くなってまいりましたら、もうそれこそ参るな修行しちゃならんなどと云われたら、もうそれこそ生きる楽しみすら無くなるでしょうね。そういう人が合楽には何人も増えてきた。もう今日限りあんたは参って来ちゃならんちゅうたらどうでしょうか。それは大変淋しい事であろう、修行しちゃならんというたら、もうそれ何かそれこそ歯が欠けた様に心が虚ろなものになってしまうであろう。それは信心が段々容易うなって行きよる証拠です。
信心がいよいよ身に付いて行く、いわゆる血肉になって行きよる訳です。信心の稽古をさせて貰うと言う事は、その様に素晴らしい事。信心によるいわゆる寒修行が終わったからもう他のことの修行ならば、もう恐らく修行中だけは大変一生懸命になって、修行が終わったらそれでもうやれやれ一服というところでしょうけれども、信心にはそのやれやれ一服が無いのではなくて一服されないのである。信心はわが命なりと。ですから、皆さんいつの間にか信心は容易いものにしておいでいただいておる事になります。
いわゆる信心の焦点が段々適格に間違い無く的確になってきた訳です。その日その日のおかげを受けていけば立ち行こうが、ここではもう焦らず騒がずと言う事が言えます。信心というものは、もう焦らず騒がずである。そして何日の間にかいわば有り難くなって行ける。いつの間にか信心が血肉になって行く。昨日の体験発表の中に、私の子供が丸少の代表で話とります。成程朝の三時過ぎにゃ起きらにゃならんし、親先生のお供をさせて頂くと言う事は彼にとっては大変容易い事ではない。
容易い事ではないけれどもね、それが段々に身に付いてきたら何とはなしに有り難うなってきたというとります。毎晩休ませて頂く時に一生懸命お願いをする。明日は気分よく清々しいお目覚ましのおかげを頂く様に、けれども一辺だってなら清々しいお目覚ましはなかった。矢張り眠たい。眠たいけれども起きてなら黒衣をつけておかげを頂いておると、ああ起きてよかったと、こうそこには彼なりの喜びが有る様である。
そしてどういう結論を出しておるかというと、親先生がいつも言われるように信心は理屈じゃ有りませんと言う事になって来た。いつの間にか何とはなしに有り難いものになって行きよる。だからその間にもうお前止めぬかというたらそれこそ淋しい事になるだろうとこう思う。私共が神様の前に出たときに、いわゆる合掌せなければおられない、いやこれは縋る、神様に縋るにはそれこそ無心に縋る。縋らなければおられんのである。また願わなければおられんのである。
幹三郎が毎晩床の上でお祈りしておる。拍手してからこう御祈念しとる。久富さんが幹ちゃんは何ばあげんお願いしよんなさじゃろうかいちゅうてから云われる位、床の上で。昨日の話は素晴らしい。私も何願いよるか分からなかったけれども、昨日のお話で聞いておると、どうぞ明日また親先生のお供が出来ますように。又お目覚ましのおかげ頂きます様にと言う事だけれども、なら毎晩毎晩願うてはいきよるけれどもね、未だ一辺だって神様が言う事を聴いて下さってはいないと言う事なのです。
もうお願いさせて頂いとったら神様から起こされたとか、もう清々しいお目覚ましのおかげを頂いて、いつも親先生より先に起きて待つといった様なおかげを頂いとるとはひとつも言っていない。またそういう、ま五十日余りになるけれども、そういう体験は生まれていないということ。けれどもね。そのことが問題でなくなってきておると言う事が有り難い。勿論そのところが積み重ねられていると言う事。そのことが言わば修練である。積み重ねられて行きよる中にです。
それこそ一分一厘の間違い無くキチッと神様が起こして下さるなと実感せねば居られぬ程しのおかげになってくるであろうけれども、今のところはそういう毎日拝みよる真剣に拝みよるけれども、ならそういうおかげは頂いてはいないと言う事。自分の願い通りおかげは頂いていない。けれども何とはなしに有り難うなって来たというのである。しかも信心は理屈ではないと親先生がいわれるのが分かって来たち体で。
どういうことなのだろうか。私昨日ここ下がってから炬燵の間にまいりましたら若先生が炬燵の所へ寄りました。私が座ったら直ぐに今日の幹三郎の話は素晴らしかったですねという。あんたもそれば感じたかて。私もそう思うた。もう今日の朝の体験発表はね、今日はね私から見るとね、これは親だから子だからというのじゃ無くて、もういうならばあの人の話がさろうてしもうたと申しました。お願いをする。
思う様にならなかったら、神様は聞いて下さらなかったと不足が出る、不平が出る。こがしこお願いしよるのにと、恨みがましいことになる。それが今日私がいうおかげを目指すからおかげを目指しとるからそうなのである。信心を目指さないからであると言う事。そこに信心を目指すところから、例えば繰り返し祈っても祈っても自分の思う様になって行かないけれども、それを繰り返し頂きよる内に信心のいわば有り難さとまでは行くまいけれどもです、それこそ何とはなしにと言っております。
何とはなしに有り難うなって来た。まあおそらく有り難いな。もうそれこそ有り難いなというより、未だ芽が出たばかりである。ですから、これが育つならばです、これは素晴らしい信心が育つであろうと。例えていうと久留米行き吉井行と。久留米行を信心といたしましょうか、それならばね信心、久留米行きの方をむかなければ何時まで経っても久留米には到着しません。それはそれは牛の歩みの様であるかも知れません。本当に只一歩一歩かも分からない。
けれどもいつかは、久留米の方に向かって歩いておれば、到達出来るのである。ところがどうですか、吉井の方ば向いて行きよったら、反対になって行くじゃないですか。この事ば頂かなければならない。この事ば貰わにゃならんから、こういう修行もさして頂きよるんだと。それも有り難い。けれどもねこの事を通して、矢張り向きだけは、久留米のほうを向いとかなけりゃいけん。願っちゃならんではなく、願わにゃいけんと神様は仰る。願わなければ神様は淋しいというておられる。
だからいうならば、願いの稽古をしなければいけんと言う事。どうぞどうぞというて願う。そしておかげにならんならばです、いわばお願いしながら却って反対の事になるならば、これ程信心するのにというたら、もう信心は止まっておるとおっしゃる。だから繰り返し繰り返し願うて願うて願い抜いて行って、尚且つそれが願いが成就せんと致しましても、これは未だ私共の信心が足らぬからと信心の姿勢を向けてさえ行けば良いのである。昨日は総代会がございました。
まあ色々皆さんの話聞かせて頂きました。北野の堤さんがこういう話をしておられました。信心は有り難い。第一朝参りが有り難い。その朝参りの有り難い第一は何であるかというと健康のおかげを頂く事だと。次に朝参りをさして頂いて親先生の御理解を頂いて、もういよいよ信心は有り難いという意味の事を話しておられましたから、一番最後にその事を申しました。堤さんその朝参りをする事が、成程健康になる為に朝参りしておる事に、朝早起きをすると言う事になったら、お参りはせんでもよい事になる。
あさ早く起きて、北野の通りをぐりっと一周して散歩して廻りゃ、朝参りそれは同じ事。お賽銭もいらん。だから信心というものはね、まぁ二番目にあなたが言っておられる様に御教えを頂く、新しい御理解頂いて、その日一日のいうならば、其の日其の日が立ち行くところの、そのエネルギーともなるものを、朝頂ける事が有り難い。有り難いだから朝参りをする。ところがこの事を期せずし、て願わずして健康のおかげ頂いとると言う事になるのじゃないか。
だからいわば有り難い目的が違うと、今日私がいう久留米行きのつもりであるけれども、いわゆる信心が分かる事の為の有り難さでなくていわゆる健康になる為の有り難さになってしまう。吉井行きになってしまう。言うならば健康とかね、おかげというものはね、其の後からついて来るものなのだ。だといって話したことでした。私が有り難いと思いますことは合楽の方たちはもう分からぬなりにですね。
という皆さん達もおかげを願うとられますよ。また願わなければなりませんけれども、そのおかげを願いながらですね、信心が段々容易いものになって行かれておると言う事が有り難い。それはどう言う事でしょうかね。例えば私は達は自動車の運転なとしたことないから、私にとっては自動車の運転と言うものは、それは動かすだけでも容易ではない。それを頻繁な車の多い中に運転して行けなんて言ったってそれは大変むつかしい、それはもう命懸けである。
けれどもね、なら運転免許とった人が自動車ちゃ難しいですかと聞いたら、いっちょも難しい事はなか気易か、居眠り半分にでもよかとね。難しいとはいわぬでしょうが。いうならそれを体得する迄が難しいといえば難しい。けれども体得が出来て行くことの楽しみ。それが例えば信心の上にその事を言うならば皆さん方はその運転免許を取らせて頂くためにね、稽古が段々出来よんなさる、少しは自分で動かすことが出来る。そういう様な感じがする。それを例えば信心の薄い時にはそれを難しいという。
とても自動車の運転ちゃ中々難しかとか。実地だけじゃ出来ん。矢張り学課も出来にゃいけん。信心も同じ事。実地だけじゃ出来ん。或る意味で私共はその人その人なりにひとつの教養を身に就けておられますから信心も矢張りその教養次第に、いうならば教学的にも勉強が出来ていく。論理的の上に立った信心と言う事も段々身に付いてくる。同時に体験から生まれてるところの信心。その両方が相俟って行く。
自動車の運転免許と同じ事である。それを只時々便乗しておることだけが信心なりと思い込んでおる所に間違いが有るのだと。次に信心をいよいよ例えばいま合楽の皆さんに信心をやめなさい、朝参りをもうしちゃできんばいち言われたらそれはちょいと楽な気がするかしれん。けれども何日かもしそれが続いたとするならね、それはもういよいよ淋しくなろうという位皆さんの信心が血肉になって来よる、そこからですね。
三年五年の信心では未だ迷いやすい。十年と信心が続いたら我ながら喜んで我と我が心をまつれ。もうここに至って来るとき信心はいよいよ尊いものになって来るです。言うならば生活とね、信心が遊離しておる。だから難しい事になるのである。生活の中に信心が有る。いやそうじゃない、信心の中に生活が有ると言う所まで、高められて来なければいけない。だからこうしてお参りされておられるのはもう、言うならばこれはもう生活なのである。生活の一部なのである。
おかげを頂かんならんからお参りをする、と言う事と大変違うですね。それはもう当たり前としての信心。いわゆる信心の中に私の生活がある。生活と信心とが相対してない、一緒になってる。溶け込んでおる。今日忙しゅうございますけん、という間は未だ難しい時です。信心そのものがもう既に生活である。信心そのものが生活なのです。いわゆる信心がいわば血肉になった。
そこから生まれてくるもの、これはいわば期せずして心の中に感じられる、幹三郎じゃないけれども何とは無しに何とは無しに有り難うなって行きよるとこういう。だからこれが育って行きゃ、それこそ我と我心が拝めれる様になる。我ながら喜んで自分の心をまつれとさえここには言っておられる。自分で自分の心がまつられる様になったらどんな事になるだろうか。先日から野中君が断食修行したと、だからみんな友達もそれに伴走的な修行させて貰うおかげで先日それが終わった。
終わらせて頂いたその翌日にお届けをしておる事は、毎朝こうして御祈念にお参りをさして頂くと、ほんとに御理解を頂かして頂いて一々道理である。尤もである。ああ有り難いと思いよりました。けれど断食修行をさせて頂きよりましたらね、有り難いと思いますというのではなくてね、それが血に肉になっておる感じですとこう言う。野中君修行ちゃ有り難いねと言うた事でした。修行させて頂いた時には有り難いということではなくて、それがそのまま血肉になって行きよるち言います。
私の父があのどじょう汁を食べるともう一杯一杯がね、身に付きよるごと美味しいとこう言う。その様にどじょう汁が好きだと言います。信心がもういよいよ好きになって来た。もう自分から切り離されないものになってきた。そして昨日の修行明けに青年を代表して、学生会でしたかね代表して体験発表する事になっとった。ところがねもう昨日に限って寝忘れとった。
それこそ昨日に限って、お父さんお母さん兄弟達参って来とった。福岡からそれが野中君だけ見えとらんけん、どうしたっちゃろうかいと私は思いよった。そしたら昨日に限って寝忘れたとこう言う。ここに来てからとうとう泣き出してしもうてから、もうこげな残念なことはないとこういう訳なんです。然も体験発表させて貰わにゃならんというその責任も有るのに、又聞いても貰うと思いよったのに昨日に限って寝忘れる事は何とした事であろうかと、もう神様からつき放された感じがしたらしい。
そこで私が申しました。一月間まぁ言うならば誰も真似の出来んごたる。お参りも出来た。修行も出来た、おかげで体験もいろいろ頂いた。体験発表も出来た。そしたらね自分はやる事はやったなと慢心が出りゃせんじゃろうか。神様ちゃ抜け目がない。抜け目がないちゃ神様ちゃ行き届いてござる。折角これ程信心の芽の出て来たものを、慢心で又芽を摘み取る様な事が有ってはならんから、もうそれこそ三十日の間只昨日だけ寝忘れさせてそういう信心を神様があたためて下さる。
これからのさぁ寒修行が、終わったけんこれで終いというのではなくてこれからの信心を神様が願うてござるからこそ神様は寝忘れさせなさったんだというてお話しさせて頂きました。私それこそもう泣きながらここでお届けされるので何か何かいっちょも分かんやったけど、後から聞いたらそのお詫びの印に、何かもう又断食を始めようとお届けをしたらしい。若先生がそげんいいよった。そげんいうてお届けしたでしょうというから、さあ私はよく分からなかった。
泣きじゃくりながらお届けされた。と言う様に残念であったと。然も昨日一番大事な日に寝忘れるとは何とした事かと、野中君自身は思っておるけど、神様はそのような手段を以てでも本当の信心を身につけさせ様となさる働きを下さる、そういう信心がですね、三年五年六年七年と続いたら我ながら喜んでまつれれる様な信心が必ず生まれて来るだろう。神様の願いはそれなのだ。
寒中修行にこれだけ修行出来たら、それでおしまいといった様なものじゃない。そこんとこをきっかけとしていよいよ本当な、言うならば本格的な信心を神様は願い求めておられるんだという風に感じるのです。そういう信心が十年と続いたらである。只御利益を頂かせて頂くことの為に、それが十年が二十年続いたって、我心が拝めれる様にならないでしょう。若し幹三郎の信心が昨日発表した様なあの調子でです。
現在のようなあの調子でです信心が育ったら、私は純粋な信心といったらね、まぁ昨日の幹三郎のあのたどたどしいもうお話しとしては、どこの取り柄もない様なお話だけれども、話そうとしているその内容がね、信心の一番尊いところにふれておると言う事。願わなければおられないのが人間。障子一重がままならぬ人の身であってみれば、分かってみれば分かってみる程です、願わなければおられんのが私達なのです。そしてその願いが成就するとかしないとか、もうこれは神様の世界なのである。
私共が立ち入る世界ではないのである。それでも尚且つ願わねばおられない。その願わなければ居られないそこにです。願って行きよるうちに何とはなしに信心が理屈じゃないなと言う事が体得出来とると言う事。私は一番素晴らしい信心はそういう信心が育つ事だと思うです。朝参りをする。朝早起きをするから健康になる。だから参るというのではなくて、信心が楽しゅうなって有り難うなって身についてくる事が感じられる。
そこに期せずして健康は願わずして付いてくるのである。私は昨日幹三郎の話から其の日其の日のおかげ受けて行けば立ち行こうがと言う所。自分の願い通り思い通りにならなくとも其の日が立ち行けば有り難いじゃないか、容易う信心をするいよいよ、信心が容易いものではなく楽しいものになって来る、有り難いものになって来る。楽しい有り難いと言う事は難しい筈がない。
どうぞ一つ信心がね、今日ははっきりそのところを申しますと、おかげを目指したおかげだけを目指した信心はいよいよ難しいものになります。けれども信心を目指す信心なら容易いのです。いわゆる容易いだけじゃない。楽しいのです。有り難いのです。それが血肉になって行くに従ってです、我と我が心が十年と経ったら喜んで我が心が祭れる程しの事になって来る事、これは疑いなしである、そこに人間の幸というものが有るのです。その人間の幸、我と我心が拝めるその心の状態。
そこにね神様の願い、神のいわば悲願が有るのです。氏子どうぞ信心しておかげを受けて呉れよ。氏子おかげを頂いてとは仰ってない。氏子信心しておかげを受けて呉れよ。信心の方が先なのである。氏子信心しておかげを受けて呉れよ。これが神様の願いである。その願いに応え祀らして頂く信心をいよいよ身に付けて行く。信心を目指す。これは絶対難しいものではない。容易いのである。
というてほんならそれは眠くきつくもないかというと。眠うもあるきつうもあるけれども。何とはなしに有り難いのであるから良いでしょうがね。ちゃんと布団の中で寝むっとって容易い、そういう意味じゃない。ここにいうとられます。眠くもある。きつくもある。けれども何とはなしに有り難うなって行くというのであるから、それは難しい事ではないでしょうが。そう言う意味に於いて信心は容易いものになるのですよ。
どうぞ。